成熟した大人のための、追憶の物語 『須賀敦子全集 第1巻 ミラノ 冬の風景/コルシア書店の仲間たち/旅のあいまに』 周回遅れの文庫Rock

春・夏・秋・冬、と季節は巡り

一つの季節の終わりは、新たな季節の始まりでもある。

しかし、今を生きるすべての命に、その〈常識〉は適用されない。

我ら人間もまた、ただひとりの例外もなく、二度と再び巡り来ることのない

ひとつひとつの"季節"を踏みしめつつ、成長し、老い、死んでゆく。

 

本作は、そんな逃れられない宿命を逆手にとったかのように

繰り返し繰り返し、現在から過去へと想いを馳せてゆく

見事に終始一貫した、《追憶の物語》である。

 

さらに、彼女の著作の多くにおいて

「知人の死」が、起点あるいは終点を飾っている。

デビュー作『ミラノ 冬の風景』、末尾。

「あとがき」からして、締めくくりは、この一文だ。

いまは霧の向こうの世界に行ってしまった友人たちに、この本を捧げる。

 

 

若い女性(とはいえ、今や40代前後も該当するが)の好きな作家のなかに

しばしば彼女・須賀敦子の名前を見かける。

だが正直、それはイタリアなどのエキゾチックな雰囲気

(昔の、それも上流階級との交流も含まれる)に"酔っている"だけだと

言い切ってしまいたい。

 

若い読み手にはわるいが、

これは、いくたびもの「別れ」と「死」を見送り

深く、暗く、底知れぬ"命の果て"が、「いつか、そのうち」ではなくなった

ある年代以降のヴェテランにしか共感しえない

『郷愁、悔悟、喪失、あるいは永訣の報告書』なのである。

 

といった直後に、ちゃぶ台返しで恐縮だが

長年の熟成期間を経たのち世に出た彼女の著作は

実体験から匂い立つ〈生々しさ〉も〈激情〉も、見事にそぎ落とされている。

ちょうど高級洋菓子店のショーウィンドウのように

粒ぞろいの表現と、無駄なくシンプルな叙述が、控え目な光を放つばかり。

だからこそ、"本当の自分"を探し求める若き男女は

その表面的な"オシャレ感"に魅了され、憧れを抱いてしまうのだろう。

 

事実、せいいっぱい先輩ぶってる当方にしたところで

思わず何度も読み返してしまうのは

〈死〉や〈別れ〉に直接触れる場面とは限らない。

むしろ、彼女ならではの"粋な言い回し"だったりするのだ。

 

ともあれ、以前読んでみて、ピンと来なかった方はいうまでもなく

面白く読んだ、という方であればなおさらのこと。

ある程度歳月を重ね、しばしば"身近な別れ"と接するようになったころ

ぜひとももう一度、じっくりと読み返していただきたい。

必ずや、新たな魅力に巡り遭い(165ページの引用文同様)

ますます、この作家の凄みを実感できるはずだ。

 

てなわけで、以下は、「うたた独断セレクト」の名文集。

『ミラノ  冬の風景』より。

ナポリを見て死ね」

この町は、全体をうけいれるほかないのだ、そんな思いが私の考えを占めるようになった。部分に腹を立てていると、いつまでたっても、この町と友だちにはなれない。  まず、全体をうけいれてから、ゆっくり見ていると、その日思いがけない贈物をくれることがある。それは、同時に、思いがけなく足をすくわれる危険をつねに伴ってもいるのだが。                            (66ページ)

 

舞台のうえのヴェネツィア

訪れる度にヴェネツィアは、以前には感じとることのできなかった新しい魅力で私に迫り、それまでの理解がとるに足らぬほど浅かったことを教えてくれるのだった。それは、ある日ある時間ふいに現れて、訪問者をはっとさせる。きらきらと水面に燦めく夕陽の光がたえず波に砕け散るように、それはいつも限られた時間の中に現れ、突然、見るものを襲うのだが、おなじ経験が反復されることはほとんどない。そんな美しさをヴェネツィアは、少しずつ露わにして見せてくれた。        (165ページ)

 

『コルシア書店の仲間たち』より。

女ともだち 

しんからの旅行好きというのではたぶんないのだけれど、私はそんなふうに友人にさそわれて旅に出るのが好きだ。ガイド・ブックや職業案内人にたよる旅行は、知識は得ても、心はからっぽのままだ。友人といっしょに見たあたらしい(見なれた街角でもいい)景色には、その友人の匂いがしみついて、ながいこと忘れられない。(333P) 

 

ダヴィデに――あとがきにかえて

コルシア・ディ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。

若い日に思い描いたコルシア・ディ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。                           (374ページ)

 

『旅のあいまに』より。

ある日、会って‥‥

パスが高速道路を走りはじめてからも、四人の家族は、まるで目には見えない機を織るように、素早く手先をうごかし、あかるい陽のひかりをとおすレースのようにゆびをからみあわせては、たのしげに会話をつづけていた。生まれてはじめて手話を見る気持で私は、みごとな四人の会話を(じぶんではなにひとつ解読できないまま)目で追った。

彼らの手の動きが、なみはずれてうつくしいことに気づいたのは、かなりな時間がたってからだったように思う。母親の手の動きはちいさくて、やさしく、娘の手はひらひらと蝶のように舞う。少年たちのは、元気がよくて、大きく左右に振れる。この手の動きで表現されるように、きっと彼らだけに通用することばや感情も、いくつか、この手の動きで表現されているにちがいない。そして、私が彼らの話に見とれていたのが、彼らが手話で話していることのめずらしさから、というのではなくて、手からはじまり、からだぜんたいにそれをつたえるようにする、そのしぐさの、音楽的な、といっていい華やぎに、ちょうど声のきれいなひとの会話に耳をかたむけるように見入っていることに気づいたとき、私のまえにこれまで知らなかったあたらしい世界がひらけた思いだった。                             (424ページ)

 

SFやラノベの刺激的(破壊的)な文章も、大好物。

けれど〈美しい日本語〉は、書き写しているだけで気持ちよくなる。

 

ではでは、またね。