昔から、思い通り(予想通り)に物事が進まないと
いとも簡単に感情を爆発させ、周りに当たり散らしてしまう。
そして、ひとしきり怒り散らしたあとで、己の了見の狭さにショックを受け
しばらくの間、ぶすっと黙り込み〈自己嫌悪の殻〉に閉じこもる。
・・こんな、やくたいもない徒労に、どれほどの時間を奪われたことか。
困ったことに、いまこの瞬間も同じ〈殻〉のなかに籠っている。
まったく、どこまで成長できない人間なのだろうか・・
(思えば昨日のブログも、"爆発の余波"が書かせたものだったのかも)
そんな、果てなき自己嫌悪の沼に身投げしたくなる気分のとき
数少ない〈慰め〉になってくれるのが、津村記久子の記したエッセイだ。
『やりたいことは二度寝だけ』に続く本書は、.〈二度寝シリーズ?〉の第二作。
勝手にジャンル分けさせてもらうと、"脱力系エッセイ"とでも呼びたくなる。
日常のなかで遭遇するささやかなことがらを、独特の視点でとらえ
思っきし肩の力の抜けた結末へと、仕立て上げていく。
しかも、一見平坦にも見える、その文章のところどころで
のどかな野原に潜む弓矢トラップのような〈こんしんのいちげき〉が
読者(私)の心にズブリと突き刺さってくるのだから、もう.たまらない。
たとえば、『幸せになれないということ』と題された2ページに満たない文章。
以前、会社勤めをしていた著者が、上司のパワハラを受けた体験を語った。
しかし、ここで彼女が注目するのは「パワハラの内容」ではなく
パワハラをする側と、される側との〈力関係〉なのだ。
引用しよう。
さてこの図式において「必要としている」側はどちらか。パワハラ主である。
パワハラをする人は、パワハラをする相手を必要とし、依存している。
一方、パワハラをされる人は、パワハラをする人なんかまったく必要としていない。
ある種の歪んだ片想いである。 (29ページ)
いきなり、パワハラする側のほうを〈弱者〉と断定する。けだし真実だ。次に
同じように、いじめをする人は何よりもいじめをする相手に依存している。
自分自身だけで満足できる(自足)ことを探す能力がなく、常に他人を必要とするわりに、他人に対して不自由なほど神経質である。「気に入らないこと」への感度ばかりが鋭く、それをどう動かすかに執着している。また、「どうにもならないこと」への耐性も低く、他人に当たることでしかそれをやり過ごせない。 (30ページ)
ここで読者(私だ)は、心のなかで"イタタタタ・・"と、のたうちはじめる。
なぜか。自分自身が、著者の語る《いじめをする人》にドンビシャリ!だから.だ。
しかも著者は、このように続け、締めくくる。
いじめをすることから脱せない人は、ろくな人生を送れない、と断じるのではない。
ずるく立ち回ってうまくやる人だっているだろう。ただ、ろくな人生を送っても、心底は満足できない。自足できないとはそういうことだ。
どれだけ幸福を供給されても、トイレに流してしまう。頭には、「不愉快」を察知するアンテナがありえない感度で立ち上がっている。周囲の人を無為に傷つけ、満たされることは永遠になく、壊れたラジオのように「気に入らないこと」を受信し続ける。死ぬまで。これをおそらくは不幸という。 (30ページ)
いやもう、参った。。と言うしかない。
気がついたら、ほぼ全文を引用してしまったが、そうせずにはいられなかった。
今回読み直して、改めて自分の愚かさを痛感させられた。
幸いにも――言い訳かもしれないが――
私の(いじめモード〉が発動されるのは、多くて年に2~3回。
それ以外の〈平常運転時〉は、のんびりまったりが基本で
様々なことに"心から満足"させてもらっている。
ああ、よかった。
とはいえ、思い当たる要素も多々あって・・ああ、痛い痛い。
おそらく《最もとんがった作品》を引き合いに出してしまったので
「ちっとも"脱力系"じゃないぞ」と感じたかもしれないが
あくまでもベースになっているのは
〈津村式"楽しい日々の過ごし方"〉だったりするで、ご心配なく。
ただ、たまーに、ノドに小骨が刺さったような気持ちになると思うので
そのときは、ぜひとも、該当した個所をじっくり読み直してほしい。
きっと、〔何か〕について考え直すきっかけになるはずだ。
ではでは、またね。