ちょっとばかり遅きに失したが
昨夜BSで放送された「メダリストオンアイス」の提供バックで
幸せそうに写真を撮り合う女子選手たちの姿を見て
書かずにいられなくなってしまった。
数あるスポーツ競技のなかでも、フィギュアスケートは
その〈残酷さ〉において、他の追随を許さない――。
だいぶ前から、試合の中継を見れば見るほど
強く感じるようになった想いだった。
なぜならば
タイム、距離、高さ、得点など
記録(数字)のみをシンプルに競い合う、大多数のスポーツとは異なり。
(格闘技においても常に明確なルールが定められており、
あくまでもその具体的な基準に従って、勝敗が決定している)
フィギュアスケートの場合
『美しさ』という極めて抽象的かつ主観的な評価基準が
場合によっては勝敗を左右する大きな要素となって
選手ひとりひとりに、のしかかってくるからだ。
もちろん、評価の対象となる『美しさ』は、ひとつだけではない。
身のこなしや動きの滑らかさ、感情表現、アピール力など
地道なトレーニングによってレベルアップできる要素も、たくさんある。
また、一部のアイドルやタレントのように、外科的な手立てで容姿を整える
という道も禁止されているわけではい。
しかしながら、それにも厳然とした限界がある。
特に、骨の太さ、四肢のバランス、頭部の形などなど
骨格や体形そのものに由来する《美しさ》は
選手本人の努力が及ぶ範囲外のところ。
つまり、〈持って生まれたもの〉で、ほぼ決まってしまうのだ。
早い話、どれほど素晴らしいジャンプを決め
その他の要素も完璧にクリアできる技術の高さを見せつけたとしても・・
さらに言ってしまえば、たとえ他の追随を許さない高得点を獲得。
表彰台の一番上に登ることができたとしても・・
観客(視聴者)の大多数が、彼女(選手)の『美しさ』に魅了されなければ
本当の意味で〈世界一のフィギュアスケーター〉とは言えないのでは。
――なんてものすごく失礼なことを、毎年この時期になると考えていたのだ。
(体操・新体操・シンクロ?なども同じ要素を含んでいるが
フィギュアスケートほど顕著ではない・・よね?)
でも、こんな基本的なこと。
誰よりも当事者である選手本人が、最も痛切に感じているに決まっている。
極限まで食事制限に勤めても、スリムになってくれない下半身。
どれほどヘアスタイルを工夫しても、カバーしようのない頭骨の大きさ。
ロシアやヨーロッパの選手とは比べようもない、足の長さ。
なのに彼女たちは、ただひとりで、リンクに登場し。
その理不尽ともいえるハンデを課された身体を、なにひとつ隠すことなく
満場の観客と、一千万単位の視聴者が見つめる前で
ここまでの人生を削って手に入れた「成果」を、披露するのだ。
まるで、木の棒と皮の服しか持たない一般庶民が
それでも極限まで自らの体を鍛え上げ
勝ち目のないラスボス戦に挑むかのように・・
そんな彼女たちの、決して諦めようとしない姿を無責任に眺めつつ
いったいなぜ、そこまで〈不利な戦い〉に全てを注ぎ込むことができるのか?
と、不思議に思っていたとき。
目に入ったのだ。
BSで放送された「メダリストオンアイス」の提供バック。
大きなスポンサー企業名の向こうで
出場した女子選手たちが、メダルの有無に関係なく
心からの笑顔を浮かべ、記念写真を撮り合っている姿が。
その瞬間、勘の悪い私の頭に、理解が降りて来た。
容姿も体型も関係ない。
ただ、好きなだけ。
一方的な「片想い」だろうと、構わない。
諦められるものならば、とっくに辞めている。
何と言われようが、気持ちが済むまでやり続けてみせる。
――だって、フィギュアスケートに”恋して”しまったのだから。
振り返ってみれば。
みんなだって、似たようなものだったのではないか。
ただ”恋する”相手が、フィギュアスケートじゃなかっただけで・・。
そんなふうに思い直してみると
今まで「可哀想」のフィルターを通して見ていた彼女たちの一挙一動が
ふいに身近で、愛おしいものに思えてきたのだった。
そうだよ。
好きなんだから、しょうがない。
思いっきり、頑張ってみなよ。
《夢中になれる》って、素敵なことなんだから。
それにしても。
こんな当たり前のことに、今さら気づかされるなんて。
情けねー。
ではでは、またね。
よいお年を。