「ノンフィクション」って、そんなに偉いの? 『ジーノの家』内田洋子 周回遅れの文庫Rock

タイトルで誤解されたくないので、最初に断っておくが

本書は、文句なしに素晴らしい作品である。

 

一篇あたり、ほぼ30ページというショートストーリでありながら

風土や気候のさりげない描写や

登場人物のちょっとした言動のひとつひとつから

いままで何度か訪れたイタリアで体験したあれやこれやが

次々に湧き上がってくる。

読者である自分もまた著者と共に、出会いと別れを繰り返している。

そんな、胸のときめくひとときを過ごさせてもらった。

 

ただひとつ。

なんでわざわざ、そんな余計なことを言うのかな?

と、不快な気分にさせられたのは

本文ではなく、最後の「解説」だった。

引用しよう。

 

まるで、珠玉の短篇小説を読んでいるようでもあり、映画の一場面を見ているようでもある。とはいえ、ここに収められた各編はノンフィクションでありエッセイなのだ。

だから、人びとの温もりや息遣いなどが活き活きと伝わってくるのに、物語として熟成している。まさに極上のワインのような味わいなのである。  (301~2ページ)

 

これはフィクション(小説)とノンフィクションを明確に区別し

あわせて、後者を前者より上等だと考えていなければ、出てこない文章だ。

 

いやいや。そんなことないでしょ。

ブログ、ユーチューブ、インスタグラムなどなど

個人で自在に作品を作り、発信できるようになった現在において

「フィクションとノンフィクションは違う」という認識など

明らかに誤りだということに、なぜ気づけないのか。

 

たとえば、テレビで放送される「ノンフィクション」と謳った作品。

「これはすべてありのままの姿を記録したものです。

 ヤラセはもちろん、演技指導も誘導もおこなっておりません」

とかどれほど言い張ったところで、実際に撮られている人の前には

ビデオカメラ(スマホ)を構えたカメラマンが、べったり張り付いている。

これを意識せず〈ありのままの姿〉を見せることができたら、それこそ演技だ。

「いや、被写体がカメラの存在を忘れるぐらい、長期間日常に密着してます」

とか言われたって、そんな「異質の存在」が居座っているような〈日常〉自体を

《非日常》と言わず、何と言えようか。

 

ま、上記の件は、とうにあちこちで言及されているようだから、次に進もう。

 

問題は、そうやって「あくまでも客観的に記録された映像」は

決してそのままノーカットで放送される訳ではない、ということ。

そう。いわゆる〈編集作業〉が待ち受けている。

これは、撮影された膨大な長さの映像のなかから

撮影者(ディレクター)が伝えたいメッセージに沿ったものをピックアップ。

最も効果的に視聴者に伝わるよう

放送時間に合わせながら切り貼りしていく作業だ。

「伝えたいもの」だけを残し、邪魔になる「その他」は捨て去る。 

いったいこれのどこが、《ありのままの姿》なのだろうか?

 

同様の〈斬り捨て〉は、記録〔撮影〕するときにも

表現するときにも、誰もが当たり前のこととして実行している。

風光明媚な絶景にカメラやスマホのレンズを向けたとき

実際には手前に見える「ゴミの山」をファインダーに収めようとする人は

おそらく、いないはずだ。

(環境問題を告発するジャーナリストがいたか)

また、最後の力を振り絞って走る駅伝ランナーを撮影するときも

テレビカメラは、一緒に歩道を走ったり沿道で大騒ぎをする群衆の姿は

可能なかぎりカットしようと努力する。

 

そう。

ノンフィクションも、へったくれもない。

実在する存在(人物・スポーツ・事件・戦争etc.)を

どれほど「ありのままに」伝えようとも

《人の手によって発信される情報〔映像・文章・音声など〕は

 ひとつの例外もなく、"伝えたいこと"を表現するための【創作物】なのだ》

 

もちろん、本書『ジーノの家』も例外ではない。

どこまでが「本当」で、どこからが「創作(演出)」なのかは知らないが

少なくとも、著者が実際にその地に暮らし

各編のモデルとなった人物に出逢っただろうことは、想像できる。

でなければ、ここまで〈生々しい表現〉は生まれない。

とはいえ、「ドキュメンタリーなんだから一字一句事実のままだ」

なんて盲目的に信じてしまうのも、あまりに幼稚なスタンスと言わざるを得ない。

いちいち意識せずに、情景や台詞に色の違いのフィルターを何枚もかさね

「より美しく」「より心に響く」、いわゆる《いい話》へと昇華させたはずだ。

なにより、そうでなければ「作品」とは呼べない。

 

ひとことで言うと――

『俗に"ノンフィクション"と呼ばれるジャンルは、

 事実を題材にして創り上げたフィクションの一種である』――ってことだね。

 

だから、もう、「フィクションかノンフィクションか」

なんていうどーでもいい区別=差別はとっばらって

創作物の絶対的な評価基準である【面白いか、面白くないか】で

競い合っていけばいいんじゃないかな。

 

こんな当たり前すぎること、いまさら力んで意見する必要もないのだろうけど

あまりにもトンチンカンな「誉め言葉」に呆れたもんで

旅行記録を中断してまで書いてしまったよ。

 

ではでは、またね。