テレビの”オワコンぶり”を痛感する 『ナンシー関の耳大全77』ナンシー関/武田砂鉄編 周回遅れの文庫Rock

光あるところに、闇がある。

 

ときどき耳にする、このことば。

様々に言い換えられて、活躍している。

例えば――

闇が濃く大きいほど、それを照らし出す光は強く輝く。

言い換えると、強大な悪があるからこそ、正義の味方の存在価値も高まるのだ。

――みたいに。

 

本書を読み終えて、まっさきに浮かび上がったのも

この「光あるところに、闇がある」だった。

要するに

まだテレビが、人々の夢や憧れを受け止め、まばゆい光を放っていたからこそ

ナンシー関の〈テレビの本質にも迫る痛烈な批評〉もまた

大きな反響とともに鋭く黒い?輝きを放つことができたのだ。

 

だが、そのナンシー関が突然この世を去ってから、はや18年。

その間、テレビは、いかなる〈新しい光〉を創り出すことができたのか?

本書に収められた、1993年から2002年までの

彼女のコラムを一読すれば、答えは明らかだろう。

確かに、20年以上もの年月を経て

テレビの一面を飾るタレントたちの顔ぶれは多少の変化を見せている。

(決して多くはない。実に3分の1はいまも絶賛活躍中)

しかし、それよりも唖然とするのは、番組作りを巡る手練手管が

今現在の2020年12月と比べても、ほとんど変わっていないことだ。

 

お笑いバラエティー番組の中のお客の笑い声は効果音の意味を持つ。実際の観客による笑い声をはじめ、いわゆる笑い屋と呼ばれるプロによる笑い声、編集によってあとから笑い声だけをかぶせるなどの方法により、臨場感やグループなどを醸し出す効果を狙うのだろう。しかしいまや、のべつまくなし笑う客(例「笑っていいとも!」)聞き慣れてしまった笑い屋の笑い声(例「三枝の愛ラブ!爆笑クリニック)」、伝統芸能のような様式美でしかない編集による笑い(例「ドリフの大爆笑」)にさしたる「効果」は期待できなくなり、それに代わってここ数年の主流になっているのが「現場スタッフの笑い声」である。

しかしたいしておもしろくもないことに過剰に反応するその(笑)は、現場の和気あいあいとした空気(内輪ウケということ)を伝える効果と、ここはおもしろいところ(のつもり)なんですよ、という合図の働きしかない。おもしろいものを見せるのではなく、おもしろがっている様子を見せることで、おもしろいものが存在していると錯覚させようという仕組みは、まさになまぬるいバラエティー番組の醜態そのものである。

                              〔1994年7月〕

 

四年に一度のビックイベントで入れ込む気持ちはわからんでもないが、それにしてもやりすぎだろう。それも、ちょっと妙な方向へ。TBSのオリンピック中継番組のキャッチコピーが、その妙な方向を如実に表している。

「感動まっしぐら '96アトランタ」がそれだ。〈中略〉

感動させてくれ、とあけすけに叫び始めた。さらに言えば、船主側のこれまた足並みを揃え「オリンピックを楽しみたい」というコメントと、何か見事にリンクしている。

開会式のあと、何人もの選手やリポーターが「鳥肌が立った」という同じ言葉を使って感動していたのは、不思議というか不気味ですらあった。    〔1996年7月〕

 

どちらも、25年以上前の文章だ。すごい。

そして、まるでテレビが伝統芸能であるかのように

四半世紀前の技を継承し続け(させられ?)ている作り手の皆さんに、同情する。

幾人かいる看板芸人のひとりをメインに据えて

あとはジャニーズやAKBグループさえ出せば成り立つような番組に

もはや、いかなる魅力も存在しないのだから。

新しいものが生まれない業界――それを、オワコンという。

 

いっぼうで、本書の中には

テレビが最後の輝きを放っていた時代の熱さとともに

いまなお”目からウロコ”体験ができる、珠玉の名言がちりばめられている。

 

SMAPはなぜ年上の女性にも人気があるのか」というのも、週刊誌が好んで語ったネタである。これってさ、「こんな年になってもSMAPに胸をときめかせている、そんな私が私は好き」ってことなのではないか。おそらく。      〔69ページ〕

 

現在全盛である。何かに挑戦したり、何かの渦中に身を置いてどう転がるかという不測の状態を追うとか、娯楽に興じているさまをそのまま番組にするなどのバラエティーの形は、すべてとんねるずが先鞭をつけたと言ってもいい。それらの番組パターンは今も衰えず、引き継がれている。                  〔161ページ〕

 

しかし、人間というものは慣れるものである。本当に慣れる。もっとすごいのは、慣れていなかったころのことを忘れてししまうことだ。野村沙知代だってそうだった。初めて見たときの邪悪な不快感を、慣れが消し去ってしまったわけである。本当は何ひとつ変わっても、薄まってもいないのに、世の中は勝手に慣れて、「サッチー、ステキ」と言うまでに麻痺してしまった。                 〔189ページ〕

 

局アナが、安くて無理のきくバラエティータレントの代用品みたいになって久しい。

なんで選び放題の中から、こんなに原稿を読むのにつっかかる人をアナウンサーとして選んだのか、なんて思っても、選択の最優先基準がそこ(上手なアナウンス術)にないことは明らかだけど。「悪声のアナウンサー」なんてのもそう珍しくない。NHKも含めた各局のアナウンサーを見ていると、その曲のテレビには何が有効か、つぶしがきくのは何か、ひいてはテレビってどんなものか、みたいなことが、その新人アナの選択基準とシンクロしていて、なんかバレちゃってて恥ずかしい。    〔251ページ〕

 

――もういちど、最初から読みたくなってきた。

「不世出」という言葉は、こういう時にこそ使うものだと思う。

 

ではでは、またね。