もちろん彼女が漫画家であることは周知しており
「テルマエ・ロマエ」はじめ自伝的エッセイマンガなどの作品も愛読していた。
しかし最近、テレビで彼女の姿を目にすることが多くなり
そのたび、「ずいぶん自信たっぷりに話す人なんだなぁ」と感じていた。
本書を読んで、その理由が、ようやく胸に落ちた。
よく、功成り名遂げた人物が、苦しかった下積み時代について語ることがあるが
彼女の場合、それは冗談抜きで「地獄の一歩手前」だったこと。
その途上、嫌というほど”痛い目”に遭い
自らの心と身体を崖っぷちギリギリにさらし続けた結果
ちっとやそっとでは揺るがない〈確かなもの〉を手に入れたことを。
とりあえず、いま私に書けることは、この程度だ。
少々ズッコイかもしれないけれど
あとは、ページを開くたび、グサリ、グサリと突き刺さってきた
ヤマザキマリの言葉を、引用させてもらうこととする。
もし、このなかのひとつにでも
「うわぁ、わかるわかる」
「そうそう・・そうなんだよなぁ」
みたいな、ため息交じりの賛意が漏れてしまったり。
「よくぞ言ってくれた!」
と、思わず拳を握りしめてしまったとしたら。
あなたもまた私と同じく、”痛みを知る者”のひとりに違いない。
眼の前にあるものに飛びついて、うかうかと流されるな。
欲しいと思うその気持ちは、本当に自分のものなのか、まず疑ってみること。
回りに同調しているだけじゃないか。流行りに乗っかっているだけじゃないか、世間体を考えて、見栄を張っているだけじゃないか。それでも本当に必要だと思うなら、自分でよく考えて、選びとった結果に責任を持つこと。 (43ページ」
だいたい、はなっから「自分はこういう人間です」なんてわかるわけがないんです。わかっているつもりでいるなら、それは、たぶん「これまでの自分」に過ぎない。自分なんてものは、そうやっていろんな経験をするたびに、どんどん上書きされて、更新されていくものじゃないでしょうか。
だとしたら「私って、こうだから」と、やる前から自分の枠や限界を決めてしまう必要もない。その時、その時に、自分がやれることをやってみればいい。 (69ページ)
「いいかい、マリ。ちゃんと考えるんだ。そして考えたことを、自分の言葉で人に伝えること。そうすると、ひとりで頭の中で考えているのとは、まったく違うことが起きることに気づくはずだ。人は対話することで、考えたことをさらにその先に展開していくことができる。大事なのは、どっちが正解か、勝ち負けを決めることじゃない。互いの考えを持ち寄ることで、もっと深く考えることができることなんだ」 (91ページ)
人はパンのみにて生きるにあらずと言うけれど、何がその人にとって、本当に価値のあるものなのか。お金がないからこそ、常に問われながら生きていました。
お金がすべてというパワフルな価値観に打ちのめされないためには、それに負けないだけの価値観を自分の中に培わなければいけない。一元的ではない、ものを見る目を、考える力を身につけなければいけない。
芸術も、文学も、映画も、音楽も、そのためにある。先人達が見つけた生きる知恵そのものなのだ思います。 (97ページ」
賞にたまたま引っかかっただけ、連載もたまたま決まっただけ、運がよかっただけかもしれない。でもそういう偶然が、行くべき道を教えてくれるんじゃないか。もし、あの時、私が自分の好きなこと、やりたいことだけにこだわり続けていたら、かえって動けなかった気がするのです。「こんなに苦しい思いまでして10年以上もやってきたのだから、自分には油絵しかない」と思い続けていたら、今の私はなかったでしょう。
潮目が変わる時って、自分のことを俯瞰して、客観的に見ることができるんだと思うんですよ。好きなことに打ち込んでいると、どうしても視野が狭くなって、自分、自分って、自分のことしか考えられなくなるけど、今の自分がしがみついていることだけがすべてじゃないってことが、いろんなきっかけで見えてくる。 (137ページ)
ひとりひとり、持っている才能も、経験も、個性も、考え方も違うはずなのに、スタート地点に発つ前から、去勢されてしまうとしたら、本当にもったいないと思います。
女性誌なんかの「好感度服」の特集を読んでも感じることですが、「こうすればモテる」とコーディネートの仕方から立ち居振る舞いまで、手とり足とり教えてくれるけれど、そのファッションを自分がしたいと思うか、その人に本当に似合うかは別の話じゃないですか。
選ぶ基準を相手に渡した時点で、選ばれる自分を演じ続けなければならなくなるわけで、その先に自分が本当に望んでいる幸福な未来があるとは思えないのです。
むしろ、そうやって最大公約数的な答えに合わせようと、合わせようとするから、どんどん、本来の自分がわからなくなって、苦しくなる。
面接で立て続けに落とされたりすると、社会の役に立たない自分なんてなんの価値もないんじゃないかって、つい思いそうになるけれど、どんな人間だろうと、この社会のお役に立つために生まれてきたネジではないのです。
それなのに、日本では、学校でも会社でも「個性を大切に」と言いながら、実際は個性より社会の方が、優先順位が上で、子どもの頃から「社会に当てはまるいいネジかどうか」で評価されてしまう。お国のために役に立てるかどうかで人間を値踏みする精神性が、いまだに根付いている。うかうかと使い勝手のいいネジを目指した挙句に、さっさと使い捨てられたんじゃ、元も子もありません。
ちょっと乱暴な言い方かもしれませんが、いざとなったら身ひとつになったっていい、どこにも帰属しなくたって構うものか、どこで働くのかは、こっちが選ぶ。そんなふうに、イニシアチブを取り返すことはできないものでしょうか。
自立して生きるというのは、本来、そういうことのはずです。 (150ページ)
自分の思い込みを、自分で壊しては、また立て直し、また壊しては、立て直していく。
それを繰り返すことで、自分自身も更新されるし、目の前の世界も、どんどん、新しく開けていく。ひとつの価値観しか知らないと、その価値観の通用する範囲でしか生きられないけれど、いや、こんな価値観もある、あんな価値観もあると広く知っていくことで、世の中ってのは、いろんな人達がそれぞれの事情を変えながら生きているんだってことが、本当に身に染みてわかってくるんだと思うんです。
そして、それがわかってくると、もっと知りたい、もっと広い世界を見てみたいって、チャレンジ精神が湧いてくる。生きていくことが面白くなっていくんだと思うんですよ。 (210ページ)
まだまだ書けるけど、これ以上ダラダラ並べても
他人のフンドシで相撲を取ってる(自分の頭で考えず楽している)だけなので
あと、いっこでオシマイにしておこう。
本書の冒頭。はじめに ――どんな場所でも生きていける私になりたくて――から。
働いて、稼いで、生きていく。
「仕事」という、この生きていくための当たり前の営みが、つらいだけであっていいはずがない。
どうにもならない時は、次に行く。明日はどこで生きていこう、そう言えるくらい、フットワークは、たぶん軽くていい。働くことは、本来、そこからまた新しい道が広がっていく可能性そのものでもあるはずです。
人間、いざとなれば、どこでだって生きていけるし、どうにかなるもんです。本当はそれくらい頑強な生き物なんですよ。 (10ページ)
ではでは、またね。