”なにも終わってない”ことを、覚えていたい 『おいで、一緒に行こう』森絵都 周回遅れの文庫Rock

手に汗握るアメリカ大統領選挙

再び1000人の大台を超えた新型コロナの話題が

気にならないわけではないが

10年前の〈あの震災〉について再考させられた1日となった。

 

理由は本書、『おいで、一緒に行こう」である。

2011年3月11日の大震災に端を発した原発事故のあと

福島第一原発の周辺地区に暮らす住民は、強制的に避難させられた。

その際、置き去りにされたイヌネコなどペットの多くは

あるいはリードに繋がれたまま飲み食いできず

またあるいは突然の野生生活に耐え切れず

次々と倒れていった。

この本は、そんな〈明日をも知れぬ命〉を何とか助けられないかと

警察(国)の監視を潜り抜け、立ち入り禁止の20キロ圏内とへ潜入。

自らの生活も顧みず、イヌネコの救助と保護に奔走し続けた人々の記録である。

 

・・おまえ、どこの学者先生だよ!?

なーんて、チャチャを入れたくなるような前書きは

読み終えて初めて出てきたロモノに過ぎない。

実際のところ、本文の途中までは

人間よりペットの命を大事に思う”特別な方々”の話じゃないの?

という先入観を捨てきれずにいたのだから。

 

だが、読み進むにつれ

先入観はボロボロと崩れ落ち、痛みと恥ずかしさにとって代わる。

これは、見捨てられた動物たちの姿を借りて描かれた

原発事故によって人生を狂わされた人々の記録」だった。

しかも、この人たちの”生活”は、いまこの瞬間も続いている。

 

あの日から、10年の歳月が過ぎようとしている。

しかし、故郷を奪われ、家族との暮らしを引き裂かれ

”たかがペット”すら飼えなくなってしまった被災者の人生は

いまだどこにもたどりつけず、浮草のようにぷかぷか漂うだけだ。

復興とか絆とか、美辞麗句に彩られ

その実、莫大な金を費やして確かな形になったのは

母なる海とのつながりを断ち切る、巨大なコンクリートの壁と

空き地ばかりが目立つ、高台の新興住宅地。

確かに建設業者や公共事業の関係者は懐を潤すことができた。

だが、被災者ひとりひとりのもとには、なにが届いたのだろうか。

 

この本に出逢えたおかげで

自分の中で「終わったこと」になりかけていた

巨大地震津波、そして原発事故が引き起こした余りにも大きな悲劇を

もう一度、心のなかに蘇らせ

〈いまなお続く現実〉として受け止めることができた。

そのことを、素直に感謝したい。

 

私たちの暮らしている社会では

「知らなかったんだから、しょうがないね」

などと、無知ゆえに許される場面に、しばしば出会う。

本来それは、一般常識を身に着ける前の「子供」に対する許容さだったはずだ。

しかしいまでは、れっきとした社会人にも適用される「免罪符」になってしまった。

そう。権利ばかり声高に主張しながら

同じ権利に付きものの義務は「知らない」と無視して平然としている

いわゆる〈モンスター✖✖✖✖〉のように。

 

様々な本に接して、そのたび、何度も思い知らされるが

〈知らないこと〉は、〈恥ずかしいこと〉なのだ。

 

――ははっ、なんか正義の味方みたいじゃん。

 

ではでは、またね。