ラストまで読み通してわかったこと 『十字軍物語①~④』塩野七生ふたたぴ 周回遅れの文庫Rock

もともと早合点しやすいタチで

人の話の途中で「・・ってこと?」とか

結論に先回りしてしまうことが少なくなかった。

とはいえ、正解率はマックス八〇%。

見当違いな方向にホームランをかっとばした記憶も多々ある。

 先月23日に続いて、再度取り上げた『十字軍物語』塩野七生

そうした”やらかし”のひとつに数えられそうだ。

 

まず、次回作『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』に言及していながら

肝心の本人が登場する前に

獅子心王リチャードこそ本書のヒーローだ!」と即断してしまったこと。

 

ところが・・第四巻の目次を見てから「ヤバイ」と感じたものの

実際に読み終えてみると、そんなに作者の〈熱〉が伝わってこなかった。

確かに、猫も杓子もキリスト教だった当時のヨーロッパ社会において

異端ともいえる近代的価値観の持主であり

聖フランチェスコと並ぶ〈ルネッサンスの先駆者〉との重要性は理解できた。

しかし、その描き方は、本人を目に前にしているようなリチャードとは異なり

少し離れた場所からじっくり眺める、といった冷静さが感じられたのだ。

それは、ちょうど『ローマ人の物語』における

ユリウス・カエサルオクタヴィアヌスの関係を思い起こさせた。

よって、全巻読み通した後でも

本書のメインヒーローは、やっぱ獅子心王リチヤードで決まり!

と、以前の主張を繰り返させていただこう。

少なくとも、この男が一番熱く描かれていることは、疑問の余地がないのだから。

 

そんなわけで、本当の”やらかし”は「ヒーロー問題」ではなく

本書を読了した後で、何よりも語らなければならない

いち読者としての率直な感想だった。

それは、創作者にパワーを与える「愛の力」ではなく

哀しいことに――

原理主義者の愚かさと醜さ、であった。

 

本来、十字軍とは

イスラム教勢力に奪われていた聖地イェルサレム(地方)を取り戻そうとする

キリスト教国家連合の聖地再征服運動(レコンギスタ)である。

もちろん口火を切ったのは、歴代のローマ法王たち。

「聖地奪還」の美名に背中を押され

西欧諸国の王侯貴族たちが次々と名乗りを上げ

奇襲もどきの第一次十字軍で、あっさりイェルサレム奪還を果たしてしまう。

 

だが、問題は、その後だ。

最初に受けた痛手から立ち直り

イェルサレム(十字軍国家領)を奪い返すべく動き出すイスラム勢力。

かたや、聖地奪還の熱も冷め

徐々にヨーロッパ本国からの補給も途絶えがちになる、キリスト教国側。

それもそのはず、キリスト教勢力は一枚岩どころか

イギリス・フランス・ドイツをはじめ

それぞれの同志が「陣取り合戦」の真っ最中。

なかには、ライバル国の王が十字軍に参加しているスキに

少しでも領土を奪い取ってしまおうと画策する、セコイ君主もいたのだ。

 

そんな中でも、イスラム勢力の圧倒的な攻撃の前に

十字軍国家領はひとつ、またひとつと失われ、

ついに聖地イェルサレムからも撤退せざるをえなくなる。

もちろん、危機が迫るたび

ローマ法王はじめキリスト教の高位者たちが「十字軍」の再興をアピール。

結果、主なものだけでも8回に及ぶ十字軍が派遣された。

この間、実に2世紀近く。

全体として、イスラム勢力が優勢となっていく流れの中でも

獅子心王リチヤード率いる第三次十字軍や

皇帝フリードリッヒ二世がリーダーとなった第六次十字軍など

キリスト教側が盛り返すケースもしばしばあった。

だが、大半の十字軍は

イスラム勢力の前に全滅の憂き目に遭ったり

途中で空中分解したり

同じキリスト教国側であるコンスタンティノープルを襲ったりと

かえってヨーロッパ諸国の力を弱める結果しか収めなかった。

 

で、声を大にして言いたいのは

これらふがいない結果を知った、キリスト教トップたちの反応だ。

「聖地奪還」への熱い想いを胸に全力で戦った”神の子”たちに対して

次のように言い放ったのである。

 

「あいつらは、信仰心が足りなかった。だから負けたのだ」

 

これが、キリスト教に命を捧げた男たちに手向けた、〈敗戦の理由〉だ。

もちろん勝ったときは、我々の信仰心の篤さこそが勝利の原因だ!

と公言してはばからない輩が、である。

 

闘う者たちが最大のよりどころとしている

《信仰の中心》を支配する人々がこれでは、十字軍も浮かばれまい。

 

皇帝フリードリッヒ二世が率いた第六次十字軍のときにも

キリスト教トップたちの「頭の固さ」が、これでもかと披露される。

イスラム勢力のトップ・サラディンと交渉を重ね

平和裡にイェルサレムを取り戻す、という「外交の勝利」を完璧に無視。

「戦って(血を流して)取り戻さなければ認めない!」と

フリードリッヒの成果を完全に否定し

教皇代理のイェルサレム派遣さえ拒否したのだ。

(だから未だにキリスト教国内におけるフリードリッヒ二世の評価は低く

 逆に負け続けながらも教皇の言いなりだったフランス王ルイ九世は

 死後、聖人に祀り上げられている。ひどいもんだ)

 

「他人の成果はぜんぶ自分の手柄」

「自分の落ち度はことごとく他人のせい」

まるで、現アメリカ大統領の言動をそっくりそのまま写し取ったような

キリスト教トップたちの〈やりたい放題〉は

十字軍時代の終わりになって、クライマックスを迎える。

 

人も物も乏しいなか、文字通り命を削って

地中海沿岸の狭い地域に追い詰められた十字軍国家領を守り続けたのが

「聖堂(テンプル」騎士団」「病院(ホスピタル)騎士団」など

キリスト教に身も心も捧げた、戦闘騎士団だった。

1291年、キリスト教側に唯一残されていたアッコンが陥落。

西欧各国の有力者たちを先に逃し

最後まで街を守っていた両騎士団など残存勢力は

キプロス獅子心王リチヤードが占領した)へと避難した。

 

これにて、十字軍の歴史は幕を閉じるのだが

収まらないのは「完全敗退」を知ったキリスト教側の庶民だった。

イェルサレム奪還を求める声は、日に日に高まっていく。

そして、新十字軍を率いるリーダーとして注目を集めたのが

当時最大の勢力を誇っていた、フランス王・フィリップ4世だった。

 

だが、十字軍よりも自国の拡大に熱中していたフィリップは

どんな手段を使ってでも、自らの十字軍参戦を回避しようとする。

そこで思い付いたのが、十字軍遠征失敗の全責任を

イェルサレム随一の守護神となって活躍した聖堂騎士団」に

おっかぶせようとしたのだ。

度重なる十字軍遠征の失敗に「スケープゴート」を探していた

キリスト教トップらにとっても、それはまさに〈渡りに船〉であった。

 

 

アッコン陥落から16年後。

聖堂騎士団の団長はじめ百数十名が逮捕。

過酷な拷問の末、悪魔崇拝・十字架に唾を吐きかけたなど、

身に覚えのない罪状を認めさせられ

ほぼその全員が火あぶり、獄中死など、非業の死をとげた。

そして、騎士団がフランスに所有していた資産は全て没収され

フランス王のふところへ。

その他の資産は、カトリック教会へ消えていった。

 

あまりにも卑劣――

としか言いようのない、フランス王とカトリック教会の行ないについて

著者は、こう締めくくっている。

 

聖堂騎士団に対する裁判は、カトリック教会と王が組んでの「でっちあげ裁判」という点で、この一世紀後に起るジャンヌ・ダルク裁判と双璧を成すと言われている。

ジャンヌ・ダルクのほうは近年になって、ローマ法王庁は名誉を回復したばかりか聖女にもしたが、聖堂騎士団に関しては、今なお知らん顔をつづけている。

 

三巻読了時に書いた、前回の文庫Rockでは

「著者の愛」なるものを、メインに据えてみたが

いささか早とちりであった。

 

『十字軍物語』から私が受け取った、最大のメッセージ。

いわばそれは、――《理不尽さに対する怒り》だ。

 

盲信(原理主義)は無知と同じ。

信じる者が救われるとは、限らない。

「正しさ」「正義」を主張する者を、疑え。

そして、なによりも

自分の頭でしっかり考え、自分の責任で決断しろ。

他人の言いなりに生きるなんて、〈生きている〉とは言えねーぞ。

・・うーん、結局ここに戻ってくるなあ。

 

ではでは、またね。