消極的受容策でコロナウイルスと共存する。これがベスト。 本日の”なんだかなぁ” 

前回、コロナ関連の雑文書いてから一週間が経ったが

予想通り、状況はまったくといっていいほど動いていない。

 

「自粛」「お願い」という法的拘束力皆無かつ

結局、すべての責任は国民一人一人に丸投げ状態の

対策ともいえない対策のもと

全国でじわりじわり増え続ける感染者?数。

 

いったん出してしまった「GoToカード」を

引っ込めることもできず

「旅行はOK。でも帰省には要注意を」という

アンビバレンツなコマンドを出したまま

「夏休み」という強制フリーズ状態に逃げ込み

現われるはずもない《白馬の王子様》を

ひたすら待ち続ける、どこぞの自称リーダーたち。

 

そんななか、一方的な影響自粛・雇い止め・発注激減が

いつ果てるともなく継続。

フリーランスや自営業を中心に

今日明日の食事にも事欠く事態に陥りつつある。

かといって国や自治体は、もはや「無い袖は振れない」状態なのだから

このまま待ち続けていては、文字通り〈座して死を待つ〉ばかり。

冗談ではなく《コロナを選ぶか死を選ぶか》の段階にまで

追い詰められている人々が、日を追うごとに増え続けているのだ。

 

――となると、やはり、前回の繰り返しだが

『消極的受容策』が最も現実的ではないだろうか。

 

すなわち

「東京型」と呼ばれる弱毒化したコロナウィルスが流行している今こそ

高齢者や危険とされる持病の持ち主以外の国民が

マスク着用やソーシャルディスなど積極的な感染予防策を取らず

自然感染を受け入れ、集団免疫を獲得することでこの危機を乗り切るのが

結果的には、総合的な被害を最小限に抑える手段だと考えるのだ。

 

もはや「人の命は地球より重い」などという夢物語を追いかけ

だれひとり犠牲者を出さずに済ませることなど、どうあがいても不可能である。

ならば、少なくとも、一人の持病持ちの高齢者を守るため

仕事を失った数人の若者に《自己責任》の美名の元

「首を括れ」と命じているにも等しい

日本の無為無策ぶりは、一刻も早く改めなければならない。

多くの政治家が「未来のために」と語るその口で

若者より金と力(票)を持つ高齢者の〈生きる権利〉を優先するのは

断じて間違っている。

 

そうでなくとも、現代医学の飛躍的な発達により

数十年前であったならとうに命を落としている者たちが

今の日本の大半を占めている。

かくいう私も小学生の頃に盲腸を患い

手術によって生きながらえることができた。

これが100年前であれば、私の寿命は10年で終わっている。

当然、二人の娘も、四人の孫も、存在していない。

いま現在、様々な「持病」を持つ人々もまた

〈現代医学のおかげ〉で命を取り留めた

いわば《スペシャルステージを生きる存在》なのである。

なのに、この先、いったいどこまで〈生きる権利〉を振りかざし

求め続けようというのか――?

そもそも、肥満や生活習慣病の圧倒的多数は

本人自らの日々の不摂生が招いた、それこそ〈自己責任〉だろうに。

 

60をいくつか超えている私の、偽らざる本音である。

 

――とはいえ、私の場合

相方がデイサービス施設に勤務している関係上

もし感染が判明したら、施設は2週間の閉鎖が義務付けられる。

なので、自ら率先して感染するわけにはいかない。

まったくもって、「言うは易し行なうは難し」だこと。

 

ではでは、またね。