結局なにもわからないんだから、行けるとこまでいってみよう 『ぼくがいま、死について思うこと』椎名誠 周回遅れの文庫Rock

長年、冒険的な作家活動を続けてきた著者が

60代後半に至り

自身の体験を織り交ぜつつ

「死」について考えたことを書き連ねたものである。

 

もちろん、この一冊を読み通したからといって

「死」とは何か、「生」とは何か、など

根本的な疑問への答えが提示されるはずもなく

徐々に話題は、日本における死=葬儀を経て

世界各地の伝統的な葬儀&埋葬事情へ。

さらに、本人はもちろん知人友人を巻き込んでの

臨死体験や死生観へ引き継がれていく。

結局は、「ぼくはけっこう死後の世界を信じている」と記しているが

その割には、本人自身もどこまで本気で信じているのだろう?

と思わせる軽いタッチで筆を置いた印象が強かった。

むしろ本人の心は「死とは何か」には向かわず

〈理想的な最後の迎え方〉や

〈おれたちの友情をいかに完結させるか〉にこだわっている。

いかにもシーナマコトらしい、と言えるかもしれない。

 

などなど、もっともらしく粗筋的な事を並べてしまったが

もっとも印象深かったのは、「死」そのものにまつわる体験談ではなく

死を巡る現代の《歪み》ぶりが垣間見せるエピソードたちだった。

 

たとえば、親しい編集者の葬儀に赴いたとき。

すべての段取りを引き受けた専門業者が執り行なう、葬儀のワンシーン。

僧侶による度胸がはじまる前、館内にとつぜん低く沈んだような

女性アナウンサーの声が流れはじめる。

「ひとは、生まれるときに、両手をかたくにぎりしめています……」

いつ録音されたかわからない、ゆっくりした、悲しみをこらえたような声が

まるで万物の神様からのお告げのように

天井付近のスピーガから聞こえてきた、というのだ。

『やめてほしい、と思った。

 「あざとい」という言葉が頭のなかで回転していた。「葬儀屋どもめ」という怒りが

 噴き出した。おそらくこの斎場では、すべての葬儀にこの声を流しているのだろう。

 縁もつながりもなにもないどこかの「言葉の職業女」に、本当の悲しみにつつまれ 

 た参会者がおちょくられている、という気分だった』 (本文29ページ)

 

言ってしまえば、これは、マニュアル化された《死の美化》だ。

近年のヒット小説や映画への讃辞として多用されている「泣ける」という表現と

極めて似通った匂いを感じる。

いわく、「死は誰にとっても悲しいものだ」

「若くしての死は、なによりも悲しい」

「だがそれを受け入れ、前に進み続けることこそ、最大の弔いとなる」

――なんて、いま、ふと思いついただけでも並べられるような

見事なまでにマニュアル化された〈哀しみ〉が

文字通り「1分〇〇円」でやりとりされているのだ。

もしかしたらそんなパターン化された最大公約数的な弔意であってすら

今を生きる人々の多くは共感を抱くのかもしれない。

だが、決してそれは

あなた、わたし、おれ、おまえ、といった

血肉を具えたひとりひとりの「死」を弔う言葉には成り得ないはずだ。

少なくとも、『悼む』という想いは

高みから見下ろす〈神の視点〉からでは語りようがないのだから。

 

・・というように、たったひとつのエピソードから

多種多様な想いが吹き出してしまうのは

いつまでも若い(バカい)気持ちを持つことに執着しながらも

否応なく歳を取ってきたせいなのかもしれない。

 

そんなこんなで、あっというまに「死」だけで

1300文字を超えてしまったが

実は本書のなかで最も衝撃を受けた箇所は

「死」とはまったくこれっぼっちも関係ない一文だった。

『ちょっとした体のトレーニングを毎日続けている、ということも、今の取り敢えずの肉体的安定に結びついているのかもしれない。〔中略〕まずヒンズースクワットを三百回。腹筋を二百回。プッシュアップを百回。背筋を二十回。ゆっくりやるとこれで十五分。もの足りないときはもう一セットやって三十分。夏などこれで必ず汗がでる。それから風呂なりシャワーなどでリラックスする。自宅の板の間でやっているのでこれをぼくは「毎日の床とのタタカイ」と言っている』    (本文159ページ)

これを毎日欠かさず、行なっているというのだ。

あとがきが書かれた2013年1月時点で

この文章が改められていないので

少なくとも69歳までは

記された通りのトレーニングを続けていたことになる。

 

ちょっと待て・・・スクワット3百回にプッシュアップ百回だと!?

 

これでも、大学進学を機に体育系に眼ざめ

ワンダーフォーゲル的なサークル活動に身を投じたため

(たった丸一年で辞めてしまったが、その後も山登り&歩きは続けていた)

こうしたトレーニングに関しては、いまだに身体が覚えている。

その実感からすると

「70目前でスクワット300、プッシュアップ100」という数字は

ちょっと信じられないほどのハイレベルだったのだ。

 

たが――ホントかよ?

といったひがみ根性と同時に

なぜか急に――くそ、俺も負けてはいられない・・のか!?

遥かかなたに捨て去っていたはずの闘魂が

お江戸八百町を焼き尽くした振袖火事のように

メラメラと胸の裡に燃え始めたのだった。

 

――なんと、この項、続くことに!

次回を待て。

 

ではでは、またね。