崖っぷち みんなで立てば 怖くない? 『THIS IS JAPAN 英国保育士が見た日本』ブレイデイみかこ 周回遅れの文庫Rock

厄介ごとに正面から向き合うことが苦手な方(大多数の日本人)には

おそらく頭のてっぺんから尻尾の先まで

「見ないふりをしてる間に、事態はこんなにヒドイことになっていたのか・・」

とため息をついたり、頭を抱たくなる"現実"がてんこもりだ。

 

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』でブレイクした作家だが

目の前に立ちはだかる様々な問題を

〈母子の視点〉というオブラートに包んで料理した大ヒット作より

とことん直球勝負を挑んだ本書のほうを、個人的にはオススメしたい。

少なくとも、「問題提議」という意味においては

まさに〈地雷原〉を踏破したかのごとき読後感を保証する。

 

ではいったい、どんな〈地雷〉が埋まっているのか?

たとえば「第一章 列島の労働者たちよ、目覚めよ」では

キャバクラなど風俗で働くキャバ嬢の、劣悪すぎる労働条件に光を当てる。

なんだかいろいろなものが差っ引かれてしまうというのだ。            「普通に給料から税金とした10%が引かれますが、実は店側は納めていない場合が多いんです。あとは、厚生費や雑費という名目を給料から引かれていきます‥‥。ヘアメイク代とか送り代とかそういうのだけじゃありません。ティッシュペーパー代に1000円引かれてたり、ボールペン代や、客に出すおしぼり代ってのもありました」    「遅刻や欠勤の罰金もあるし、時給3000円とか言われていても、実際にはその半分しか貰ってないことが多い。あれこれわけのわからないものを引かれるともともとの時給が低い人たちでは最低賃金を割っているケースもある」             「給与の未払いがあっても日払いでちょこちょこ貰ったりするから、たとえそれがギリギリ生活できるぐらいの金額でも、続けさえすれば何とかやっていけると思って黙って働いている子たちもいる」                            いったいいつの時代の労働者の話なんだよと思えてきた。女工哀史ならぬ、キャバ嬢哀史である。                                    そしてこの現代の奴隷制を成立させているのが、絶えず互いに競争させられる新自由主義の論理なのだという。給率制とやらで売上と給与をパーセンテージで比較され、給与のほうが売上より多いことを明示された女の子たちは自信を失い、「私が悪いのだ」と思い込んでしまう。すべてが「自己責任」に帰結してしまう日本人特有のメンタリティーがこのネオリベ奴隷制を強固になものにしているのだという。女の子たちは互いに給料の話をすることも禁止され、賃金の話をしていることが店側にわかると解雇されたり、厳しく減給されるケースもある。〈中略〉個人単位にばらけさせて互いに競争させ、成績によって差別的に各人の待遇を変えて、女の子たちが群れて文句を言ったり、連帯して雇用主と闘ったりしないようにする。実に巧妙な管理法ではないか。[23-4p」

帝国主義時代の植民地経営と同じことが、令和の日本で堂々と行われているのだ。

さらに、未払いの賃金を払ってもらおうと、女の子たちがNPOと抗議に向かうと・・ 

黒服やらキャッチやらなんだかよくわからない人々やらの怒号は最高潮に達していた。わたしたちを閉じ込めようとしたボーイも姿を現して仁王立ちし、           「何やってんだよ、てめーら、いい加減にせえよー、おらああ」          と体を弓なりにして威嚇している。                       「さっさと帰れ!」                               「勝手なことやってんじゃねえ、アホが!」                    「だっせーなもう」                              と嘲笑してわざとらしくメンバーの前に立ち、スマホをかざしてアップで一人ひとりの顔の動画を撮ろうとする黒服たちもいる。ポップコーンが宙に舞い始めた。誰かがこちらに向かって投げているのだ。〈中略〉                     「働けっ!」

げらげらとさざ波のように笑いが広がる。わたしの脇に立っていた若い黒服がダミ声で野次を飛ばした。                                
「そのとおり!」                                ここに来てようやくわたしはこの言葉の意味がわかったのである。彼らは、賃金未払いを訴えている人に対して、まだ「働け!」と言っていたのだ。      〔29-30P〕

 

同じように雇用者にこき使われている(低賃金で)、同じ立場であるはずの労働者が

弱者がさらなる弱者を踏みつけて喜ぶように、ふんぞりかえって「働け!」と嘲笑う。

――なんて陰惨なシステムがまかり通っているのだろうか。

 

続いて話題は、日本とイギリスの若者が抱く〈政治(問題)意識の違い〉へ移る。

「英国の若者たちの反緊縮運動は当事者運動であり、みんなが『このままでは自分もヤバい』という危機意識を持っているが、日本の若者にはそれが希薄すぎて、実際にコケるまでわからないんじゃないか」みたいなことをわたしが言ったとき、彼女〈*エキタスの藤川さん〉は穏やかに、しかし、しっかりとした口調で言った。       「私が思うには、『考えたくない』と思うんです」                「ああ――‥‥」エキタスのメンバーたちから一斉に声が漏れた。            「考えたら、先を考えたらもう終わってしまうんです。本当は中流じゃなくて貧困なんだけど、貧困っていう現実に向き合うと終わっちゃうから、アニメ見ようとか、地元の友達と飲もうとか、そういうので発散しちゃって‥‥。じゃあ政治のこと考えましょうとか、そういう話をすると『まー、まー、好きにやってください』みたいな感じなんですよ。自分のこととして労働問題とかを考えることをすごい嫌がるんです。だから、友達とかと会話するときに、そういう話題を出せないんです。『何か頑張ってるね』みたいな感じになるし」                                   [73p]

 

まだ本文の4分の1だが、すでにお腹いっぱいになるほど"認めたくない現実"ってシロモノが、豪華絢爛たる大名行列を繰り広げている。         

エグい色彩と強烈な悪臭をまき散らすこの行列が、いったいどこに向かっていくのか。--そのあたりは、実際に読んでもらったほうがよさそうだ。

でないと引用文ばかりが膨れ上がって、軽く一万字を超えてしまうから・・・。

だが、しかし。

それでも書かずにはにいられない「激文」が、次から次へと襲いかかる。

 

「国民が一番に望んでいるのは、ちゃんと安心して暮らせる社会保障制度の実現で、第2位が経済、景気対策なんです。これは世論調査でもはっきりしています。だから安保とか、戦争法案を最優先に何とかしてほしいなんて意見は本当にリストの下のほうなんです。国民が最優先しているのは、要するに暮らしなんですね。なのに、暮らしを何とかしてほしいという運動が日本にはなくて。だから安保法制も、あれは政府の思惑なんですよ。そちらに意識を向かわせて抽象論を展開しておいて、暮らし自体を見させないという思惑です。だからそちらに誘導させられてはいけないんですよね。憲法9条を守れ、戦争を起こすな、と言っていますけど、戦争をなくすのに一番有効なのは貧困をなくすことです。貧困、格差、差別、抑圧をなくすこと。戦争に行きたいと思う人たちは、自分は報われていないと思う人たちですから」              [89-90p]

 

ある種の人々にとっては、ちょっとでも金の話が出て来たり、金をつくる話になるとその瞬間にすべてが汚れてしまう。だが金の話こそがすべての基盤であり、経済的に自立しないと言いたいことも言えないのだという中村さんの信念は、そんな思い込みよりもっとリアルで、もっと自由だ。                      [189p]

 

現在、多くの人々が自立するだけの収入がなくても生存できているのは、両親の援助があったり、両親と同居しているからだ。2014年に、『ビッグイシュー』が、ネットで20代、30代の年収200万円未満の若者約1800人を対象にアンケートを取ったところ、6・6%がホームレス体験をしたことがあると答え、親と別居して独立している若者は全体の20%程度に過ぎず、そのなかでホームレス体験のある人は13・5%だったそうだ。

「そもそも、いまの若者は親の住宅が持ち家じゃない世代ですからね。20年後、30年後はどうなるの? と思うと怖いです」                      [235p]

 

わたしは大きな項目が含まれていないことに気づいた。                                               「貧困」である。「貧困問題」が人権課題に入っていないのだ。英国の小学生たちはヴィクトリア朝時代やディケンズに関する授業で、「貧困はヒューマニティに対する罪だ」ということを話し合う。日本で「貧困と人権」という話になると、路上生活者へのいじめはやめましょうとか、そうした「差別」の方面から語られることは多いが、そもそも、著しい貧困は人の尊厳を損なうものであり、そのことを社会が放置することの人権的な問題は教えられていないのだろうか。差別だけが人権課題ではない。貧困をつくりだす政治や経済システムもまた人権課題なのである。           [223p]           人権は日本の社会運動が「原発」「反戦」「差別」のイシューに向かいがちで経済問題をスルーするのと同じように、人権教育からも貧困問題が抜け落ちているのではないだろうか。まるでヒューマン・ライツという崇高な概念と汚らしい金の話を混ぜるなと言わんばかりである。が、人権は神棚に置いて拝むものではない。もっと野太いものだ

 

日本では権利と義務はセットとして考えられていて、国民は義務を果たしてこそ権利を得るのだということになっています」                     と大西さんは言った。つまり、国民は義務を果たすことで権利を買うのであり、アフォード(税金を支払う能力がある)できなければ、権利は要求してはならず、そんなことをする人間は恥知らずだと判断される。〈中略〉                 日本では「アフォードできない(支払い能力がない)人々」には尊厳はない。何よりも禍々しいのは、周囲の人々ではなく、「払えない」本人が誰より強くそう思っていることで、その内と外からのプレッシャーで折れる人々が続出する時代の到来をリアルに予感している人々は、「希望」などというその場限りのドラッグみたいな言葉を使用できるわけがない。                                    [242p]

 

本書(ハードカバー版)が出たのは、2016年8月だ。

それから5年以上の時間が過ぎているが

コロナも手伝い、事態は悪化の一途をたどっている。

だから、今こそ行動に出なければ!!

などと主張するつもりは、これっぽっちもない。

これまで一度たりともデモの類に参加した経験がないように

背中を丸め、パソコンのキーを叩くのみだ。

 

それでも、「知ること」を面倒臭がり

不快に繋がりかねない事象から目を逸らし

"見て見ぬふり"を決め込むことだけは、決して許さない。

 

おっ。久しぶりに"ふんぞりゲッチョ"がしゃしゃり出てきたな。

これ以上調子に乗らせたくないので、知ったかぶりっ子の能書きは、ここまで。

 

ではでは、またね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生がつまらないのは、あなたが冒険していないからだ。 『イタリア発イタリア着』『イタリアの引き出し』内田洋子 周回遅れの文庫Rock

前回(『ジーノの家』)のときは

"ドキュメンタリー至上主義"を信奉する解説文にすっかり気分を害され

読後感より「ドキュメンタリーってそんなに偉いのか?」と

反発心ばかり書き連ねてしまったけれど、今回は大丈夫。

脱力系を演ずる偽悪家・宮田珠己氏のおかけで、気持ちよく読了できた。

 

てなわけで、さっそく本文の感想だが

――うまい。

それも、ため息が漏れるほど。

たとえば、4~5年ほど前のイタリア旅行の際

2泊しか滞在できなかったナポリの町を、著者はこう描写している。

ナポリは歩く町である。                            曲がりくねった道。坂。抜け道。分かれ道。穴。階段。角。行き止まり。切り通し。いくつもの出入り口。                               平坦でまっすぐな道は少なく、進んでは止まり、歩を歩めては息を整え、壁伝いに身を支え足下に目を向けて歩くかと思うと、建物と建物の境の青空に見とれたりした。歩くたびに道順と速度は変わり、同じ地点の往来なのに毎回いつ到着するか計り知れないのだった。                                   迷って、町を知った。遠回りをしたおかげで、見つけた風景があった。    〔62ページ〕

 

ナポリに2泊」と書いたが、1泊した翌日はアマルフィ海岸まで旅したので、実際にナポリ市街を歩き回ったのは、せいぜい10時間といったところだろう。

それでも上記の一語一語を飲み込むたびに、自分の五感で味わった"ナポリの情景"が、つい昨日のことにように、このうえなく鮮やかによみがえるのだ。

自慢話にしかならないので、ほどほどにしておくけれど              この《デジャブ感》ばかりは、実際に現地に足を運んだ者にしか理解できないだろう。

著者の"ホームタウン"といえるミラノはもちろん、学生時代に一年間留学したナポリ、フランスとの国境に近いリグリア州の田舎町、サルデーニャシチリアの島まで。

イタリア各地の自然・文化・営みの描写が、とにかく秀逸だ。

先のナポリとミラノ駅内ぐらいしか実際に立ち寄った場所はないけれど、彼女の文章に触れたとたん、自分の中に残ったなけなしの「イタリア体験」が総動員され     街角の喧騒や鼻孔をくすぐるコーヒーの香りとなって、立ち現われる。

「朝のラッシュ」を描いた次の一文にも、ナポリの"魅力"が、ぎゅっと詰まっている。

通りには、収拾が付かなくなつた朝の光景が広がっている。困った顔をしながらも、人々は騒動が通り過ぎていくのを待っている。道に座り込む子ども、は通りで繰り広げられる騒ぎを毎朝、地べたから見上げている。この町で暮らすという意味と、やっかいを乗り越えていく術を見聞きしている。                       一期一会を楽しむ。待ち時間の贅沢を堪能する。           〔57ページ〕                建物が複雑に重なる景観のとおり、町は人の心の襞の間へと沁み入り捉えて離さない

 

町や情景の描写ばかり賞賛してしまったが                    大多数の読者が真っ先に挙げる〈著者の魅力〉といえば、《人との関わり》だ。

本書『イタリア発イタリア着』の中においても、登場したイタリアの知人友人が   "いくらなんでもできすぎだろ!"と、思わず茶々を入れたくなる絶妙な瞬間に       これ以上ないほどドラマチックな「決めゼリフ」を、ポツリ呟いたりする。

 

ま、今更ながらだけど。

これ、絶対に脚色してるよね。

いくら相手が、芝居っ気と洒落っ気に満ちたイタリア人だろうと

背景など細部に至るまで、図ったようなジャストタイミンクで披露できるわけがない。

間違いなく、時間帯をずらし、場所を変更し、セリフに手を入れている。

従って、最も厳密な意味で、本書を「ドキュメンタリー」と呼ぶことはできない。

けれども、〈人が作ったもの〉である限り、それが当たり前なのだ。

従って、テレビや映画など「ドキュメンタリー」の制作現場においても

趣旨に反する情景は絶対フレームに入れないし、主張に沿った言葉だけを公表する。

そうしないと、〈視点〉も〈テーマ〉も曖昧になり、作った意味がなくなる。

だから、誰もが、"嘘をつかない"という最低限のルールを守りつつ         知恵をふり絞ってアレコレ手を加えることで(それを「脚色」「演出」と呼ぶ)   ひとつの完成した物語へと仕上げていくのだ。

どれほど〈事実だけを集めたドキュメンタリー)だと謡い上げようとも       その過程に関しては、フィクションと変わることはない。

だって――作品、なのだから。

 

うわ。やっぱ前回のムカムカを引きずってたなぁ。

初めてこれを読む人は、いきなり何を主張しはじめたのか、理解できないよね。

勝手に気持ちの整理をつけただけだから、あまり気にしないでほしい。

そんなわけで、話を戻そう。

 

本書『イタリア発イタリア着』は、著者の豊富な体験を下敷きに

見事な脚色と演出によってピッカビカに磨き上げられた、珠玉のドキュメンタリーだ。

なかでも、イタリア(人)の特徴をシンプルな言葉で一刀両断するさまは

読んでいるだけでも、ドキドキしてくる。

短すぎて意味不明かもしれないけど、こんなふうに。

「やっぱりイタリアは、後ろ姿だよなあ」                      隣席で友人がしみじみと呟く。                  〔168ページ〕

「個々の瞬発力と臨機応変さが、組織全体の機動力へと結び付かないところがまた、よくも悪くもイタリアの特色なんだろうなあ」                    自嘲と自慢半々で、助手席の友人は笑う。             〔188ページ〕

 

上のふたつの言葉が、どういう意味を持っているのか。

素晴らしい『謎解き』は、ぜひご自身で確認していただきたい。

 

イタリアに魅せられた"旅人志願者"は言うまでもなく

「旅行なんて面倒くさくて疲れるだけだよ」などとおっしゃる出不精さんにも

ぜひとも、手に取ってほしい一冊だ。

ラストで解説を書いてくれた宮田珠己先生も、こう言ってるし。

「人生がつまらないのは、あなたが冒険していないからだ」     〔297ページ〕

 

ではでは、またね。

 

全然触れなかったけど、『イタリアの引き出し』も、たまらない。

これまでさほど魅力を感じてなかったミラノに、俄然行きたくなった。

『イタリア発・・』と違い、一篇が2~3ページ程度のショートショートだから

こちらの方がとっつきやすいかも。

 

 

 

 

 

 

 

善意と肯定で彩られた"優しさ100%"の物語 『そして、バトンは渡された』瀬尾まいこ 周回遅れの文庫Rock

なによりも、この圧倒的な『肯定力』が、眩しい。

 

梨花が言ってた。優子ちゃんの母親になってから明日が二つになったって」         「明日が二つ?」                                「そう。自分の明日と、自分よりたくさんの可能性と未来を含んだ明日が、やってくるんだって。親になるって、未来が二倍以上になるこどだよって。明日が二つにできるんなんて、すごいと思わない? 未来が倍になるなら絶対にしたいだろう。それってどこでもドア以来の発明だよな。しかも、ドラえもんは漫画で優子ちゃんは現実にいる」    森宮さんと結婚したかった梨花さんが、うまいこと言って私のことを承諾させようとしただけだ。私はますます森宮さんが気の毒になって、「梨花さん、口がうまいから」と言った。                                     「いや。梨花の言うとおりだった。優子ちゃんと暮らし始めて、明日はちゃんと二つになったよ。自分のと、自分のよりずっと大事な明日が、毎日やってくる。すごいよな」「すごいかな」                                      「うん。すごい。どんな厄介なことが付いて回ったとしても、自分以外の未来に手が触れられる毎日を手放すなんて、俺は考えられない」          〔315-6ページ〕

 

確かに"子供の分だけ未来の数が増える"という事実は、否定できない。

うたた(俺だ)の人生においても、二人の娘や、四人の孫が誕生するたびに

ひとつずつ「明日」が増えていく喜びを、実感している。

でも、だからといって、現実社会に暮らす限り

ここまで"いいことずくめ"に終始することは、まずありえない。

 

だから、うたたにとって、この物語は『現代のメルヘン』とでも名付けたくなる

"よくできたおとぎ話"なのである。

 

誰もがタイトルぐらいは目にしただろうし

映画化の話題も盛り上がっている大ベストセラーだが

簡単にストーリーを紹介れば、こんな感じになる。

 

幼くして母親を事故で失い、小学四年終了時にブラジルへ単身赴任する父親と別れ

後妻に入っていた梨花と二人暮らしを始めた、優子。

その後、再婚する梨花に付き従うかたちで、二人の男性の娘として育っていく。

都合、三人の父親と二人の母親の元で育っていく主人公なのだが・・・

第一章 冒頭のモノローグから、こんな調子でスタートする。

困った。全然不幸ではないのだ。少しでも厄介なことや困難を抱えていればいいのだけど、適当なものは見当たらない。いつものことながら、この状況に申し訳なくなってしまう。                               [8ページ〕

 

周囲が想像するのは、「数奇な運命」とか「波乱万丈の連続」みたいな

山あり谷ありの青春時代であっても、当の本人は終始"淡々と"日々を送っている。

「優子」の最大の長所は、どんな苗字ともしっくりくるところだ。         生まれた時、私は水戸優子だった。その後、田中優子となり、泉ヶ原優子を経て、現在森宮優子を名乗っている。名付けた人物は近くにはいないから、どういう思いで付けられた名前かはわからない。でも、優子は長い苗字とも短い苗字とも、たいそうな苗字ともシンプルな苗字とも合う名前ではある。                    [9ページ〕

 

醒めている、とも、諦めている、とも取れる言葉(文章)だが

読み進むにつれて、そんなシニカルな心境ではなく

もっとずっと"あっけらかん"とした、見晴らしのいい世界が見えてくる。

それは――今はやりの「全集中!」にも少し似ているが――

《とりあえず全肯定してみよう》という、限りなく前向きな姿勢だ。

 

すると、不思議なことに、いかなるトラブルや不安のタネも

見上げるような巨木に育ったり、大輪の花を咲かせることにはならない。

いずれも、芽が出て双葉が開くあたりで、勝手に自滅してくれる。

「究極の片親育ち」という負の要素も、学校生活に付きものの「いじめ」も

ほら、やっぱり始まった!・・と読者が身構える、その傍から

マルっと収まってくれるのだ。

まるで、子供の頃夢中になったディズニーアニメのように。

 

コロナをはじめ、世界中にマイナス要因ばかり満ち満ちている今の時代

こうした〈夢と希望と優しさ〉に彩られた"リアルおとぎ話"は

読者に大きな癒しをもたらしてくれるのだろう。

しかし、最後の一行まで読み終えたとき、うたた(俺だ)の胸に込み上げたものは

感動でも涙でもなかった。

めちゃくちゃ言い方は悪いけど

――なんか、出来すぎなんじゃない?

ある意味"肩透かし"を食らったような、やり場のなさだったのだ。

 

だって、そうじゃん。

そこそこの大人であれば、間違いなく体験しているはずだが

恥と後悔に満ちた、思うに任せぬ青春時代を潜り抜けてきた元若者であれば

こんな"手あかのついた言葉"を、吐きたくならないか?

曰く――

現実は、そんなに甘いもんじゃない!  と。

 

むろん著者は、こうした現実とのズレを百も承知しつつ

それでも敢えて、この"すべてが丸く収まる物語"を創り上げたのだろう。

デビュー以来、一貫して温め続けた「善意」と「肯定」と「優しさ」を駆使して。

 

そんなわけで、今回の小文は

「善意」「肯定」「優しさ」を素直に受け止めることのできない

歪んだ心を抱えたいち読者の、八つ当たりも似た"難癖"だと受け止めてほしい。

本屋大賞に輝いて以来、圧倒的な称賛ばかり浴びてたから

たまには、こんなヒネまくった感想があってもいいんじゃないかな。

 

それと、最後にあとひとつ。

どうしても納得できない一行が、あった。

第2部の終盤、主人公・優子の結婚相手に会った友人?が発したセリフ。

「娘って父親に似てる人を結婚相手に選ぶってよく聞くけど、本当なんだな」

                                             〔396ページ〕

時々耳目にする〈暗黙の常識〉みたいな文章だけど、これ、都市伝説だから。

少なくとも、ふたりの娘が結婚した相手(共に男性)は

どこをどう見たって、これっぽっちも、うたた(父親)に似ていない。

一度、ちゃんと大規模な統計を取って、調べてみれば?

「必ずしもそうとは限らない」みたいな結論になるはずだよ。

 

ではでは、またね。

"シメは抹茶"で正解だった 京都ふたり旅 2021.10.4-7 4日目(その4) 清水一芳園~亀屋陸奥/京都市内

2021年10月7日(木) 京都市内⇒横浜市

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       獅子舞のような「雨除け」。京都はディテールも面白い。

 

この日は、バスや地下鉄の一日乗車券は購入せず

ホテルから歩いて行ける範囲を回ることを、決めていた。

なので、京都駅から徒歩五分の殿田食堂で昼ご飯を食べた後

食後のデザートにリストアップしていた店の数は、五本の指に満たない。

それでも、京都の旅の締めくくりは「甘味」!

という方針は変更したくなかった。

前回(昨年11月)、数十年ぶりに訪れた京都旅行の最終日。

昼食後、「梅香堂」で食べたホットケーキが、最高に旨かったからだ。

 

そんな"甘い記憶"を引きずっていたため、半分くらいは

――今回のシメも梅香堂にしようか?

って気分になりかけてもいた。

しかし、「"二匹目のドジョウ"は、得てして期待以下に終わる」

というささやきが頭の中で何度も聞こえたので、今回はバスすることに。

そう。初めて入った店の料理にどれほど感動しようとも

「2回目」は、なぜかいつも「・・あれ?」な気分になってしまう。

要するに、頭の中で〈感動〉を盛った分、期待が膨らみ過ぎて

"最初と同じ"では満足できない自分がいるのだ。

 

おまけに、2回目の「・・あれ?」を体験すると

その失望感から、最初の感動までトーンダウンすることが少なくない。

なので今回は、「梅香堂」の思い出を美しく留めたまま

あえて別の店を選ぶことに。

 

結果、残された少ない選択肢からチョイスしたのが

首都圏など大都市に支店を展開している

茶問屋直営カフェ「清水一芳園(しみずいっぽうえん)京都本店」だった。

 

前振りが長かったぶん、本編は短めに済まそう。

たぬきうどんの殿田食堂前から、なるべく静かな道を選びつつ北東へ。

JRの高架下をくぐり、塩小路橋で鴨川を渡れば、目的地まであとわずか。

うららか、と呼ぶにはちょっとキツめな秋の陽射しを浴びながら

「あ、三十三間堂だ」と、40年近く前に訪れた記憶を呼び覚ましたりするうち

東大路通の角っこにある目的地に到着する。

20分そこそこの京都散歩で、おなかもいい塩梅にこなれてきた。

 

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   懐かしの「三十三間堂」。40年近く前は、中も外もボロボロだったっけ。

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   「清水一芳園」の店構え。オシャレ。暖簾下の式台で注文を決める。

 

ガラス張りのオシャレな店先には

式台に載ったメニューを真剣に検討する先客がいた。

大学生かОLといった雰囲気の、若い女性の二人連れだった。

どうやら先にここでメニューを決めてから、入店するシステムらしい。

これも、コロナの「密」を避けるための工夫なのだろう。

 

幸い、お品書きは2部用意されてあったので、すぐ検討に入ることができた。

・・といっても、品書きは全部合わせて10種程度か。

うどん類も提供していたが、もちろんここはスイーツ一択。

せっかくの「お茶さん」なのだから、ここはやはり抹茶を使ったメニューだ。

結局ふたりとも、定番人気の抹茶パフェ「宇治抹茶エスプーマ仕立て」に決める。

値段は、確か1000円ちょっとだったかな。

 

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        一瞬、寿司屋を連想したカウンター席。

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         トイレ手前の突き当りにも、可憐な生け花が。
 

店内は、予想していたよりずっと小さく

10人ほどが座れるカウンター席と、7~8人一緒に食べられそうな変形円卓。

あとは窓際に3つ、4人掛けのテーブル席が並ぶだけ。

有難いことに、先客は前述の2人を合わせても、わずかにツー・ペア。

外の通りに臨む、窓際のテーブルに着席する。

やはりコロナ対策で、テーブル間は透明なトアクリル板?で隔てられていた。

 

そして待つこと、7~8分。

宇治抹茶エスプーマ仕立て」が、目の前にトンと置かれた。

どんな見た目かは、スマホで検索すれば一発。

ほんと、便利な時代になったもんだね。

てなわけで、あとは実食した感想。

 

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         抹茶の味を楽しむパフェ。お子様向きではない。

 

抹茶をムース状して氷に乗せたところが、一番の特徴かな。

「パフェ」という言葉から連想する"甘さ"は、かなり抑えられている。

スイーツというより、大人向けの抹茶デザート。

新線な茶葉の風味を糖分でごまかさないところが、気に入った。

最初に登場したときは、予想以上の大きさ(高さ)で

「食べ切れるかな」と心配になったけど

"冷たい抹茶"を喫する感覚で、サクサク喉を通っていく。

もちろん、ふたりとも完食。

当たり前のことだけど、久しぶりに「抹茶を食べた!」実感が心地よかった。

うん。やっぱり"2回目よりも1回目"、だったね。

 

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     ごちそうさま。次は「かき氷」かな。いつになるかわかんないけど。

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            鴨川上で停車中。大丈夫か?

 

さて、残り時間はあと90分そこそこ。

来た道を逆戻りし、京都駅の北側を素通りして

前回同様、堀川通を挟んで西本願寺に向かい合う老舗

本願寺ゆかりの銘菓店「亀屋陸奥(かめやむつ)」に立ち寄り

自分たち用の土産に、「松風」のお徳用袋(700円)を購入する。

要するに"切れっぱしの詰め合わせ"だが、味は化粧箱入りの正規品とまったく一緒。

昨年秋、2袋買って以来すっかり気に入り、今回も最後のお買い物となった。

 

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   お気に入りの老舗銘菓店「亀屋陸奥」。店員さんはちょっとそっけないけど。

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     道を挟んで"お西さん"。龍谷ミュージアムにも行きたかったなぁ。

 

そんなこんなで、2年続いた3泊4日の京都の旅も、これでおしまい。

残るはルーティン行動の、荷物ピックアップ&のぞみ号乗車のみ。

でもって16時30分に京都駅を出たと思ったら、2時間後にはもう新横浜だ。

千葉や埼玉に住む娘たち家族を訪ねるより、時間も手間もかからない。

文字通り〈ちょっとそこまで感覚〉で行ける京都・奈良・大阪方面の旅は

この後も、状況が許す限り続けていきたいぞ。

 

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        "のぞみ"は東へ。あっという間の2時間だ。

 

・・とはいえ、海外旅行が解禁になったら「待ってましたっ!!」とばかり

国際線ジェット機に飛び乗るんだろうなぁ。

 

ではでは、またね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最強の"出汁(だし)スープ"。でも毎食は? 京都ふたり旅 2021.10.4-7 4日目(その3) 殿田食堂/京都市内

2021年10月7日(木) 京都市内⇒横浜

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           五重塔に見送られ、東寺通をぷらぷら東へ

 

2時間半ほどかけて東寺&観智院を巡り終えてみると

はやくも時刻はお昼を回っていた。

いい塩梅にお腹も空いたし、座ってひと休みしたい気分になった。

東大門と並ぶ東寺の東口・慶賀門から、その名も「東寺通」を一路東へ。

10分ばかり歩けば、この日の昼食に決めていたと決めていた店の前に着く。

いつの間にか「京都を代表する大衆食堂」のひとつになっていた

『殿田食堂(とのだしょくどう』だ。

 

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           京都B級グルメの聖地・殿田食堂

 

いかにも"街角の食堂"、といったたたずまいの建物(たぶん二階建て)。

ストレートに「うどん」と書かれたのれんをくぐり店内に入ると

一気に半世紀前へとタイムスリップ。

ラカンには溜まらない昭和の空気が、いっぱいに漂っていた。

ま、今どきは、ググリさえすりゃ、写真も情報も山ほどゲットできるわけで

キザったらしい描写はここらで打ち止めにしておこう。

とにかく、"古き良きうどん屋さん"。

掃除も手入れも行き届いており、どこもかしこもピッカピカ。

柴咲コウも常連というだけあって、一分の隙もなくフォトジェニックだ。

 

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     50年の歴史を伝える店内。古びているけど美しく、清潔。

 

店内に足を踏み入れたとたん、いらっしゃい!(だった・・よな?)

元気いい声と一緒に、店主らしき年上のスリムな男性が笑顔で迎えてくれた。

初めて入る店でやや緊張気味のうたた'Sに向かって

どこから来たのか? どこを見て来たか? など、次々話しかけてくる。

また英文併記のお品書きを開くと、こちらが口を開く前に

人気&オススメのメニューなどを教え、アドバイスしてくれる。

フレンドリーなのは有難いけれど、こうもあっさり距離を詰められると

長年の旅であれこれ騙されては痛い目に遭った記憶を積み上げてきたせいか

「嬉しさ」より「猜疑心」の方が、ピカッと光ってしまうのだ。

少し後から店に入ってきた30代前後のカップル(こちらも観光客)が

常連さんのように会話のキャッチボールを楽しむ、その横で。

人の好意を素直に受け取れない、ひねたうたた(俺だ)は

こわばった愛想笑いをなんとかこしらえ

人気メニューだと勧められた、たぬきうどん他を注目するのが精いっぱい。

 

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  たっぷりのネギが、"スパイス"と言えなくもない。ちなみに相方は親子丼。

 

で、感想。

確かに、様々な本や記事で紹介されていた通り――「出汁(だし)」が絶品。

「めん」が主役の讃岐うどんとは対極に位置する、一杯。

麺(うどん)も具も、"スープ(出汁)を味わうための脇役"に過ぎない。

初日の昼に入った、鯖寿司名物のうどん屋「満寿形屋」もおつゆの味に感心したが

殿田食堂は、さらにその上を行く〈出汁を食べるうどん〉だった。

 

日本食の最大の特徴が、出汁に象徴される「旨み」だとすれば

これぞ和食の真髄!・・と胸を張って宣言できそうな一杯だ。(おまけに安い!)

――なのだ、が。

そんなに食べるとバカになるぞ! と脅す両親の声をよそに、

幼少期からワサビ、胡椒、トウガラシなどの香辛料を愛してきたうたたには

この魚介・海藻類のエキスがぎゅーっと詰まった、まろやか~な出汁が

どーしても、"ひと味足りない"気がしてならないのだった。

〈和食の国の人〉からはみだしても、構わない。

せめて3日に1度は、ピリリとパンチの利いた味が食いてーよ!!

ってあたりが、嘘偽りない本音だったりする。

 

実際、この旅でも2日目の夜は「食堂デイズ」(地中海風?料理)

3日目の昼は「シャーレ水ヶ浜」(ビーフカレー)と

"京都スタイルの味つけ"に背を向けたメシをパクついていた。

海外を旅する度にひしひしと痛感したのだが

日本ほど、バラエティに富んだ食生活を満喫できる国は存在しない。

やれ「✖✖✖に比べて社会保障制度がなってない」

それ「△△△に比べて温暖化対策がダメダメだ」などなど

自称識者・文化人のお歴々は、口々にこの国と国民をこき下ろしているけれど。

普通の生活を普通に営むアラカンうたたは

世界中の料理を本場の味で享受できる日本に生まれて、本当によかったと

心の底から感謝している。

 

むろん、今日明日の暮らしに事欠く貧困にあえいだり

過酷ないじめの元、心身ともにすり潰されそうな

"それどころじゃない!"方々が決して少なくないことぐらい、承知している。

それでも、圧倒的多数の国で毎日ほぼ同じ料理を食べ続けている現実を前にすると

毎回サイコロを転がすように、いとも簡単、しかも廉価に

3度3度の食事をルーツの違うスタイルで自由自在に楽しめる、なんて

〈世界の常識〉では、考えられないことなのだから。

 

――はい。またヘリクツに話が逸れて、"お手付き"ひとつ。

続けて向かうはずだった清水一芳園(しみずいっぽうえん)本店まで

たどりつけなくなってしまった。

まったくもう、書き始めから1カ月が過ぎ

現実の京都では紅葉の真っ盛りを迎えつつあるというのに

いったいいつになったら終わるんだか。

とはいっても、のぞみ号の出発時刻まで、残すところ3時間あまり。

次回こそ、正真正銘の最終回になる!・・に違いない。

 

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    鴨川を渡って、さらに東へ。目指すは、この旅最後の「デザート」だ!

 

ではでは、またね。

 

 

世界遺産でも国宝でもないものに感動してしまう 京都ふたり旅 2021.10.4-7 4日目(その2) 東寺/京都市内

2021年10月七日(木) 京都市内⇒横浜市

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         金堂前の消火用バケツ。意外とマッチしている。

 

腹ごしらえを済ませ、そのまま九条通を西へ歩くと

すぐ右手前方に、1000年の歴史を誇る京都のランドマーク

東寺・五重塔が見えてきた。

前回訪れてから35年ほど経っているが

新幹線の車窓からチラ見してるので、久々感はまるでない。

そのまま南大門から境内へ。

自由に行き来できるエリアをぐるっと回りこみ

北側の受付で拝観手続きをおこなう。

 

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           南大門から、おじゃましま~す。 

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     高い建造物を前にすると、思わずいろんなアングルを試してしまう。

 

たまたま「秋期特別公開」の期間中だったので

これも何かの縁と、セット料金(1000円)を払って

まずは金堂・講堂エリアへおじゃまする。

日本一のっぽ(55m)と言われる五重塔を様々な方角から眺め

金堂を拝観し、本尊・薬師如来坐像と静かに対面する。

だが、なんといっても最大の見所は、講堂内部。

21体の彫像が森の木々のように聳え立つ、「立体曼荼羅」だ。

 

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         金堂前。午前10時を過ぎても、参拝客はまばら。

 

有難いことに、この時も参拝客は数えるほど。

しーーんと静まり返った講堂のなか

日本最古といわれる密教彫像たちの前を行ったり来たり。

・・と、大学生だろうか5人ほどの若い男性を引き連れた

これまた同い年かやや上程度のメガネ男子が

あれこれ説明しながら入って来た。

決して大きな声ではなく、聞き手側も静かに耳を傾けているのだが・・

――いかんせん、どうにも気が散って仕方ない。

その気になって聞けば、なかなか良いことをしゃべってるのだろうが

こんなとこで知識をひけらかさなず、ちゃんと予習して来いよ。

と、ひがみ根性ばかりが込み上げてくる。

己の器の小ささを噛み締めつつ、講堂を後にした。

 

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       境内を前のめりに歩くチビたち。ちょっとだけ癒される

 

期待が大きかっただけに、講堂での欲求不満は大きく

拝観受付所の売店を眺めても、気分は落ち込んだままだった。

それでも、売店と対面して建つ食堂(じきどう)のなかで

フラストレーションは、あっさりと解消される。

 

この寺が四国八十八ヵ所巡礼の出発点であり

食堂内に様々な遍路用品が取り揃えてあることに、まず驚いた。

ふーん、こんなものまであるんだ。

感心しつつ眺めるうち、平積み?にされた手ぬぐいに目が止まった。

白い布地一面に、絵文字のようなお経がプリントされている。

あれ? ひょっとして、これは・・

知る人ぞ知る仏像マニア・みうらじゅん氏が

東寺土産に推奨していた「お経てぬぐい」じゃないか!

直前に立ち寄った売店では見つからなかったので

きっと製造停止になったんだ――と、諦めかけていたのだ。

文字の読めない人にもお経が唱えられるように

ひとつひとつの文言の隣に、対応する絵が描かれた歴史的アイデア商品だった。

しかもホクホク顔で購入すると、なんと一枚300円・・安い!

 

さらにこの時期、食堂内でオリジナル仏像画の展覧会?が開かれており

延々十数メートルに渡って描かれた五百羅漢?的佛さまだったり

シャガールローランサンの画風を取り入れた印象派仏画?など

ユニークな作品を、いろいろ楽しむことができた。

この食堂自体、納経所を兼ねており、誰でも自由に参拝できる。

今回に限っていえば、金堂・講堂の彫像群より

こちらの方が、強く印象に残ってしまった。

 

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       食堂内の写真はこれだけ。もっと撮っとけばよかった・・

 

「特別公開」なので、まだまだ入場できる施設が待っている。

チケット裏の境内略図で位置を確かめつつ、北大門脇の「宝物殿」へ。

さらに門を出た先、洛南高校と対面する「観智院」を巡った。

東寺の歴史を語る貴重な品々や資料が並ぶ宝物殿も悪くなかったが

それよりも"掘り出し物"だったのは、東寺一山の勧学院(学校みたいなところ)

所蔵する密教聖教(この言葉がすでに分からん)の質と量とでは日本最高と称される

「観智院」のほうだった。

そもそも、東寺の「別格本山」を"掘り出し物"呼ばわりするのが失礼か。

 

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       ここが観智院。「特別公開」のオマケ気分で入ってみたら・・

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             ホント、居心地よかった~~

 

書院造の部屋ごとに、美しい襖絵や、虚空菩薩像、愛染明王像など

枯山水の庭を含め、いろいろな趣向が凝らされているのだが

なんといっても、さんざっぱら歩き回った足に、板張りと畳の床が無性に心地よい。

加えて、コロナのおかげ?で、広い建物内で見かける人はポツリ、ポツリ。

まるで郷里の古い実家(そんなもの実在しない)に帰省したような

ゆったりとくつろいだ気分になってゆき

奥まった小部屋の縁側では、ごろり寝転んで坪庭を眺める贅沢まで味わうことに。

ほんっとにもう―――

やれ国宝だ、世界遺産だと自分に言い聞かせて拝謁・鑑賞するより

こんなふうに過ごすひとときのほうが、遥かに充実感を得られるんだよなぁ。

てなわけで「観智院の縁側」も、記憶に残る旅のワンシーンに登録されたのだった。

        

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             ぼーっと、庭を眺めていたり・・

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    ゴロリと寝転がったり・・(屋内は撮影禁止。すでにルール違反か?)

 

ちなみに、この建物内には

宮本武蔵が描いた襖絵「鷲の図」「竹林の図」が展示されており

地元のポランティアガイドの方が熱心に説明してくれたけど。

・・うーん・・・なんだか、妙に上手すぎるんだよね。

確かに、いっとき武蔵がここ観智院に匿われていたという歴史事実はあるのだろう。

けれども、ガイドさんの説明どおり、それが20代前半だとしたら

あまりに筆致が流麗で、とても絵の素養のない人物の作品だとは思えないのだ。

いくら武蔵が文武両道に秀でた天才だといっても

晩年の渋い達磨図ならまだしも

コレは、武蔵をイメージして後世誰かが描いたもの、でしょう。

ま。歴史の世界は「言ったもん勝ち」だから

「違う」と証明できない限りは、否定できないわけで。

この文書にはっきり記されている!

などとブツを持ち出されると

それが真実なのか、あるいはでっち上げなのかの判断は、ひとまず棚上げ。

とりあえず「事実認定」されちまうのが、世の習いなのだ。

何の権威もないド素人は、物的反証が見つかるまで待つしかないね。

 

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       女子トイレの案内板も十二単。これって京都共通?

 

はいはい、またまた話題がトラバース。

なんやかんや言っても、今回の東寺拝観において観智院は

食堂と並ぶ大収穫だった。

相方も大いに気に入ったらしく、建物内に焚き込められていたものと

同じお香を2セット購入していた。

少なくとも、半日かけてじっくり拝観した価値はあった。

それにしても、このペースで京都の神社仏閣を見て回ったら

いったい何年かかることやら。

・・恐るべし、千年の都。ってか。

 

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             よし。昼メシを食べにいこう。

 

ではでは、またね。

"昔の旅"を想い返すことが多くなった 京都ふたり旅 2021.10.4-7 4日目(その1) 喫茶Cizool(キズール)~東寺/京都市内

2021年10月7日(木) 京都市内⇒横浜

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   喫茶Cizool(キズール)のキッチンまわり。お洒落だけど、味もよし!

 

朝8時過ぎ、起床。

備え付けのポットで淹れたお茶を飲みながら、のんびり荷造り。

9時前にロビーに降りて、チェックアウトを済ませ

小型スーツケースだけを預けて、ホテルの外へ。

普段より動き始めが遅かったのは

朝食を摂ろうと決めた喫茶店が、9時スタートだったせいだ。

 

通勤時間を過ぎ、なんとなくのんびりムードが漂う京都の街路を

南西方向に、八条から九条へと下りてゆく。

歩くこと10分少々。

九条通りに覆い被さる近鉄京都線東寺駅を過ぎたところに

本日最初の「めし処」があった。

おしゃれであか抜けたカフェ、喫茶Cizool(キズール)。

 

この日は、京都旅のラスト・デイ。

16時発ののぞみ号に乗って、横浜に戻ることは決まっていた。

残された時間は、正味半日しかないので

「午前中は東寺を拝観」「残りは昼食と甘味を楽しもう」と

ごく大雑把な予定を固めていた。

とはいえ、どこかで朝食を入れないと、お腹がもたない。

(ホテルは朝食なし。というかホテルで食べるのはもったいなかった)

そこで昨夜、スマホでマップ検索してみたところ

ちょうど東寺に向かう途中に、評価の高い喫茶店を発見。

それが、上記の喫茶Cizool(キズール)だった。

 

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         喫茶店・・というより、洋菓子屋さんっぽいかな。

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   「こだわり」という言葉は下品だと思う。できれば、使ってほしくない。

 

少しだけ通りから引っ込んだ位置に、ガラス張りの正面入り口が。

だいたい「評価の高い低い」は、若い人が判定するから

えてして、こうしたシャレた外観だったりする。

食事の方も「当たり」でありますように・・

心の中で祈って、明るい店内へ。

カウンター席のほかに、2つだけあるテーブル席の一方に座り

サンドイッチのモーニングセットを注文する。

カウンターには、若い男性(30代?)の店主が一人。

常連らしき地元客と世間話をしながら、丁寧に作ってくれた。

 

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     簡素で落ち着いた店内。京都のカフェは、どこも長居したくなる。

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     ここにデザートのスイーツが加わる。なかなかのボリュームだ。
     

当然のように、おいしい。

去年今年と、合わせて4、5件の店でモーニングセットをいただいたが

すべてに共通しているのは、卵・パン・コーヒーが旨いという点だ。

ここでも、ふわふわの卵と食べ応えのあるパンに大満足。

ネットの評判通り、コーヒーの味もピカイチだった。

相方ともども、デザートまで綺麗に平らげ

京都のモーニングは外れがないな。と改めて実感する。

 

海外はもちろん、国内旅行に行くときも

宿泊料に朝食が含まれている場合は

つい「食べなきゃ損」とばかり、脊髄反射的にいただいてしまう。

けれども、これまで数百回に達する〈ホテル朝食〉を食べてきたにも関わらず

後になって、"あそこの朝食は旨かったな~"などと回想した経験は、ほぼ皆無だった。

いっぽう、航空券だけを購入し、1歳直前の長女を背負った相方と共にさまよった

スペイン~フランス~イギリスの〈でたとこ勝負旅〉で

ガリシア北西端の街・ラ・コルーニャの安宿に宿泊したとき。

ホテルの向かいのさびれたカフェで

甘ったるいパンとカフェオレだけの朝ごはんを腹に流し込んだ記憶は

あれから三十数年たった今でも、脳の片隅にしっかり刻み込まれている。

 

やっぱ旅先の朝メシは、地元の店で摂らなきゃ損だよ。

なんて、したり顔で旅の先輩風を吹かす、舌の根も乾かぬうちに――

来月予約した石垣島の旅では、滞在ホテルの「朝食付き」に目を輝かせるのだ。

・・もちろん、食べてみてイマイチだったらパスするけどね。

 

おやおや。

またもや万人に嫌われる自慢話に熱中し

「本日のメイン」のはずだった東寺に辿り着く前に、ガソリンが尽きてしまった。

『東寺 二〇二一年秋季特別公開』のなんやかんやは次回・・ってことで。

 

ではでは、またね。

 

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          道の向こうに、東寺の五重の塔が見えてきた。